vendredi, mars 07, 2008

いも -1. Introduction

さて、再起動を果たしたこのBlog。だが、やはりやって行く事は以前と変わりがない。

--------------------

いも Introduction

わたしはジャガイモのファンである。
2008年は、知る人ぞ知る「国際ジャガイモ年」である。
国連食料農業機関(FAO)が提唱し、2005年、国連総会で採択されている。
さぞや本屋さんにはジャガイモの本が溢れているだろうと…今のところそうでもない。ま、これからだろう。

この記念すべき年に、ジャガイモに感謝を捧げている人が居た。わたしは嬉しくなって、昔書いた文章を(それこそジャガイモのように)掘り出して、載せてみたくなった。
最初は記録してある原稿をそのままペーストすれば済むと思っていたのだが、世の中そう甘くはなかったようだ。文章に書かれたことの一部が既にTVで放映されて良く知られている事となってしまっている。さらにアンデス地方にトウモロコシが入ってきた年代が、大幅に遡るらしい事が雑誌『Nature』に発表されるに至って、わたしは取り乱した。要するに、文章の賞味期限が過ぎている。一度は闇に葬る事も考えた文章だが、大筋でまだ蘇生可能らしい。

だが、新しい資料も手に入れてしまった。必要に迫られて、かなり文章に手を入れた。

-

「謎のアンデス文明」しばしばそう表現される。
アンデス文明を育んだ中央アンデスはまたジャガイモを始めとしてトマト、トウガラシ、タバコ、インゲンマメ、ピーナッツ、サツマイモ、カボチャ…現在あまりにも身近な耕作植物の原産地でもある。
わたし達の生活には謎の文明が深く入り込んでいる。

ジャガイモは16世紀になるまで中央アンデス以外のどこにもない植物だった。
当時ジャガイモを初めて見たスペイン人シエサ・デ・レオンは「トリュフに似ている」と記述している。地下で育ち、殻も種子もない塊状の食べ物はキノコとしか思えなかったのだ。
彼等にとって食べ物とは肉、そして穀物のことだ。従って、アンデス文明の文献の中でイモの記述は少ない。むしろ、主食をトウモロコシと記述している。文明は定着によって発展し、定着をもたらしたものは農耕であり農耕とは即ち穀類の育成でなければならなかったのだ。
何故なら自分たちの文化がそうだったから
ヨーロッパは即ち麦だ。日本の米は殆ど神格化されている。
「アンデス文明はいわばトウモロコシ文明であり…」こうした記述は民俗学が盛んになり現地調査も行われるようになった筈の70年代まで続く。広い面積を使って耕作され市場でも沢山の種類、量のジャガイモが売られていてもそれらはきれいさっぱり無視されている。
「いもなんて…」

トウモロコシはコロンブスによって持ち帰られておりそれに何と言っても穀物だ。食べ物として認識しやすかったのだろう。
しかし、現在もTVなどでアンデスが映し出されてもトウモロコシ畑を見ない。トウモロコシを全く食べないわけではない。が、アンデスの主食はジャガイモであり、ジャガイモだった。現在1000を越す種類のイモが栽培されている。

中央アンデス高地に見出されているジャガイモの野生種はSolanum raphanifoliumという小型のスミレ程度の大きさの植物で紫色の可憐な花を咲かせ、小指の先ほどのイモを付ける。
これにはソラニンと呼ばれる毒が多く、食べられない。ジャガイモはトウガラシ、トマト、タバコと同じナス科に属し1500種以上の種を含むソラヌス属に含まれる。このうち150種ほどがイモを付けるが栽培種は8種しかなく世界中で栽培されているのは1種に過ぎない。他は中央アンデスのティティカカ湖付近の限られた地域に分布している。
ジャガイモのイモは「むかご」が地下に潜ったもの。そう考えると分かりやすい。地下茎はストロンと呼ばれ、その先端にイモ(塊茎)ができる。このストロンが根でない証拠としては先端が地上に出るとそこから葉や花が出来る。

さて、さらっと矛盾することを書いた。
・1000を越すイモが栽培されている。
・イモを付けるソラヌス属150種ほどのうちの8種が栽培種。
つまりジャガイモだけがいもではないということだ。
中央アンデスは明瞭な雨期と乾期が存在する。このような気候条件の土地では多くの植物がイモを作る。その方が安全だからだ。
カンナ科のアチラ、マメ科のアヒバ、キク科のヤコン、カタバミ科のオカ、ツルムラサキ科のオユコ、アブラナ科のマカ、オシロイバナ科のマウカなど、日本では考えられない種類の栽培種のイモが存在する。彼等はどのようにしてこのイモ類を見出したのか。
イモはイモから増える。つまり無性生殖を行う。これらの栽培種は殆どが多倍体の染色体数をもっている。つまり外来タンポポやシダのように「都市型」の特徴を持ち合わせていると言えるのではないかとわたしは考えている。

中央アンデスには紀元前約8000年以降の洞窟遺跡が知られている。
この付近に生息するピクーニャというラクダ科の動物は限られた縄張りを持ち移動性も低く、何よりも繁殖力が高く豊富に存在していた。「マンモス・ハンター」達は農耕以前に高い定住性をもって生活していた。人が定住する土地には他の自然界にない環境が生まれる。
「都市型」の植物はそうした人臭い環境を好む。定住したモンゴロイド達は必然的にイモを付ける植物を見出すことが出来た。これらから毒を抜く技術を開発し、栽培を始め、雑種化や突然変異によってできた多倍体の大きな、毒のないイモを見出すのに、数千年の年月はそれほど短すぎるとは思えない。毒抜き、毒消しの技術にはありとあらゆる手段が使われ、興味が尽きない。

最初に栽培されたジャガイモはSolanum stenotomamという種のジャガイモだった。栽培が拡がる中で地域的な変異が生み出され、やがて畑の中から4倍体の、大型のイモを付けるジャガイモが現れる。Solanum tuberosumと(ソラヌム・トゥベロースム)呼ばれるこの種はアンデスのほぼ全域で栽培されるようになり、現在、世界中に広く栽培されている。

ジャガイモも他の耕作植物とともにヨーロッパに持ち帰られているが主に花の可憐さ、そして次に地下にイモをつける珍しい植物として花壇に植えられていた。ヨーロッパから更に、当時の植民地にも園芸植物として拡がってゆく。

ここで歴史の皮肉がある。

タンボーラ、メラピ、クラカタウ、浅間山などの火山噴火の影響か、世界的な寒冷期を迎える。日本でも天明の大飢饉は有名だ。
何度も襲う飢饉を救ったのはジャガイモだった。
ジャガイモは食べ物として認知され、とりわけ北ドイツ、北欧を中心に積極的な栽培が行われるようになった。アイスランドではジャガイモの生産が開始されてから人口が4倍になっている。

横浜市の7割を超える面積の煙害被害地を出し、栃木、群馬両県の田畑を全滅に追い込んだ足尾鉱毒事件で故郷を追われた人々は北海道の佐呂間町に栃木という名の開拓地を切り開いたが、その開拓民を支えたのも、ジャガイモだった。

時代が下りすぎた。
初めて文献にジャガイモが登場するのは1592年、長崎のオランダ船の積み荷の覚書。日本人に手渡されるのは1598年。実に100年の年月をかけ、中央アンデスからアンデス全域、そしてヨーロッパをへてオランダからジャワ、そして長崎へ。ジャガイモはようやく日本に辿り着いた。
この頃の用途は主に家畜の飼料としてだった。ちなみにポルトガル船が種子島に漂着し、鉄砲を伝えたのは1543年。鉄砲伝来から50年後にヨーロッパ人によってようやくジャガイモが伝えられた。この史実にはちょっと驚いた。
食用として用いられ始めるのは更に時代が下り1644年くらい。寛永年間を待たなければならない。やはりそれも飢饉の際の飢えをしのぐ食物であって家畜のえさを仕方なく食べる。そうした抵抗感が根強かったようだ。青木昆陽がすでにジャガイモが全国的に普及していたにも関わらず、あまり馴染みのなかったサツマイモを持出したのはこの事情があった。当時のジャガイモが淡白な味で、味覚が日本人に合わなかっただけではない。淡白な味のものを日本人はむしろ好む。
現在のジャガイモは確かに当時よりはるかに美味しくなったが、未だに日本は世界的にもイモ類の消費量が少ない。

ふと思う。地球上にはイモを選んだ人々と穀類を選んだ人々がいる。
この違いはかなり大きい。わたしにはそう思える。

mardi, février 19, 2008

ここも再起動しなければ…

考えてみると、わたしのBlogの出発点はここにあった。

最初にbrogger.comを選択し、始めたのがこのBlogだったのだ。
その意味でももう少しここを活性化する必要がありそうだ。

様々なサイトを見比べて、多言語に対応しているところとして、ここを選んだ。今、その意味は少し薄れた。
けれど、アーカイブを読んでみると、やはり(力みも含めて)書かれている事が瑞々しく、どこかしら懐かしさを感じる。

題名に愛着があるので、今のところBlog『夏の扉へ』に力点が置かれている。幾つかリンクも付け、とりあえず仮のホームページの役割も果たしている。だが、Blog『夏の扉へ』はここから派生した、文章主体のBlogに過ぎない。謂わば日記といったところ(最近、その役割も果たしていないが)。

掲示板主体だった頃と比べて、対話から触発される事が少なくなった。
これも当初から予想していた事だが、予想以上にわたしは対話によって発想を得ていたようだ。そのことも自覚してWebの運営をしてゆこうと思っている。

ここは現在、過去に書いた文章を再編集して載せる方針を立てている。

昔、結構まとまった文章を書いていたと思っていたのだが、いざ、ここに載せようと読み返してみると、文章の寿命の短さに驚かされる。そのままの形ではとてもここに載せることは出来ない。

対話に頼って発想を得ていると、そう言うことになってゆくのだろう。

過去に書いた文章にもう少し長い寿命も与えてあげたいと思う。

何はともあれ動かさねば!と、この文章を書いている。
昨年、夏になったらこの文章を載せようと画策していた文章があった。へばってしまった。それを載せて、勢いを付けたところで連載しようと思っていた文章がある。

そいつを編集するところから作業を始めよう。

とりあえず、ここを動かす事は出来た。

lundi, janvier 15, 2007

クジラの腸

2004年オープンした国立科学博物館新館で30mに及ぶクジラの腸を展示が行われた。
目的はクジラでも腸でもない。
そこに何千と鈴なりに付いている寄生虫を展示するためだという。

画期的だったのでいろんな人に話をするのだが評判が悪い。
「気持ち悪いものの中に棲む気持ち悪いものの話しを何故するのか。」
概ねそういった理由からだった。
もともと変な人と思われている気がする。もっと進み変態扱いされている…
やっと感付いて、最近話をするのを控えている(そうでもないか…)。

何故そんなに自然を嫌い排除しようとするのだろう?
と言っても話しにならない。そもそも本人に自然を嫌っている自覚がないからだ。

「環境」に代わる言葉はないものか。この数年それをずっと考えている。
この言葉はどう考えても「人」と分離している。
環境問題は「人間と自然」の問題になる。わたしはそう思っていない。
いったん分けておいて「実は人間の体も環境で…」と言っても混乱するばかりだ。

展示意図はすぐに分かった。寄生虫の生息環境としてクジラの腸をそのまま見せる。
それがクジラという生物である事をどう実感させるのか。
どのような寄生虫がどのように棲んでいるのか、棲み分けは?
「ホルマリンの中のひものような変な生き物」より遥かに興味深い。
カマキリを標本にするため殺すと必ずと言ってよいほど
尻からひものようなむしがはい出してくる。ハリガネムシという。
親主のカマキリが死に、「環境破壊」が行われたため避難しているのだろう。
カマキリの標本をあまり作ったことがない。
だからカマキリの種類によってちょっと違ったハリガネムシが棲んでいるな
そんな感じはするがそれがどの種のハリガネムシで
はい出た後どうするのか追跡したことはない。
だが避難しても、別のカマキリに入り込める可能性は少なく?「復興」も行われないだろうからいずれ死んでしまうのだろう。大災害だ。

大抵の生物はそれぞれ独自の寄生虫を飼っている。

最近『感染症─広がり方と防ぎ方』(中公新書、2006.12.20)という本を読んだ。
題名のセンスからかなり古い本だと信じていたらどえらく新しい本だった。面白い本だ。

欧米人や戦後の日本人は衛生管理を徹底的に行った。
その為だけではないが、お蔭で花粉症人口がやたらに多い。…いや、それだけじゃないんだけれど……。

日本住血吸虫という寄生虫がいる。
プラナリアと同じ扁形動物に属し、わが国独自の立派な固有種だ。
だから保護せよと言う心算はない。岡山県や山梨県の一部で問題になっていた。
彼等はミヤイリガイを中間宿主として成長し
子虫は皮膚から人や家畜の体内に入り込み静脈に寄生して血液を吸う。
常時貧血状態では農作業に従事する人たちにとっては死活問題だ。
解決策としてミヤイリガイなどが生息する農業用水路をコンクリで固めた。
流れが速くなり巻き貝は棲めなくなる。
ミヤイリガイと共に日本住血吸虫は流れ去った。(by 養老孟司)

問題は解決された。で、コンクリは取り除かれたか?
排除は徹底的に行われる。なぜか日本全国の農業用水路はコンクリで固められた。
結果。メダカが絶滅危惧種に登録された。
「春の小川」はもはや囁かない。

環境問題は「人間対自然」の問題か?
人間も自然じゃないか。その通り。
だったら人間が作ったものも自然であっておかしくない。
都市も自然だ。
そうなると全てが自然。そういうことになる。
自然という言葉の存在する意味はない。
言葉の上からも自然は、実は、排除されている。

寄生虫に苦しむ人よりメダカが大切か!
トキの時も同じ言葉を聞いた。トキが居なくて何が困る。そうではない。
目的は実は何であったのか。
何故、自然を徹底的に嫌い、排除したいのか。
そして
自然が嫌いだ。殆どの人にその自覚はない。
何故?

2003,12,21初出 2007,01,15編集

mercredi, janvier 10, 2007

屈折した愛

2003年の事だった。泉くんが見慣れぬ昆虫を見出した。それが何であるか知りたくて互いに図書館へ行った。彼は多足類に関する面白い本を見付けたらしい。

わたしは別の図書館でちょっと屈折した愛を見付けた。

1902年Morganはショウジョウバエを用いた研究で遺伝学に多大な貢献を成し遂げた。ゲノムの研究に大きな飛躍をもたらした優性遺伝・劣性遺伝の発見だ。

ショウジョウバエは世代交代も速く、遺伝の研究には適している。
しかし、どうして彼がショウジョウバエに着目したのか、それが疑問だった。

During the summer of '99 I found that my planarians would eat greedily pieces of the common house-fly that were put into water. Moreover I found that if the head of the fly containing the red-pigmented eyes was given to the planareans, the red substance when taken into the digestive tract would color that organ, in all its parts, a brilliant red.
─T. H. Morgan: arch.Entwm.,7,58(1900)

↑の’99は1899年

つまり彼はショウジョウバエより前にプラナリアに惚れ込んでいたらしい。
何しろ"my planarians"だ。ショウジョウバエのほうは"common house-fly"なのに…。

プラナリアの再生の謎に挑んでいたらしい。無味乾燥のように言われる科学論文もよく読んでみると愛のドラマが語られていることもあり、不条理な憎悪が溢れていたりしていて結構楽しい。

坂田明はミジンコを生命が透けて見えるとその魅力を語る。
Morganも坂田明と同じ感性の持ち主だったらしく、赤目のショウジョウバエを食べると腸が染色され、生きたまま観察できることを喜んでいる。

この論文を見つけたときは嬉しかった。

彼が研究の素材としてなぜショウジョウバエに着目したのか手に取るように分かったからだ。つまり赤目のショウジョウバエを、彼はもっと大量に欲しかったわけだ。

で、大量に飼育し始めたのだろう。
学者が研究対象に愛情を抱いていることは疑いないが、研究対象のエサに心変わりする例は珍しい。

今やゲノムは科学の花形となった。 

それに引き換えプラナリアのほうは100年経ってもパッとしない。そもそも切断すると2匹に増える事を教科書で知っていても、実物のプラナリアを見たことが無い人の方が多いのではないか?
21世紀を迎えてしまってプラナリアの復権はならないものか。

プラナリアの目はひとつの細胞で黒目とレンズの両方の機能を持っている。

イモリなどの目が再生するとき光を通さない黒目の細胞からレンズの細胞が分化する。
何故このような矛盾したことを生命がやらかすのか不思議だった。

わざわざ黒い色素を手間をかけて消すより、皮膚から再生したほうが合理的だ。プラナリアの目から見ると簡単に腑に落ちる。
もともと光受容細胞はひとつで両方の機能を担っていた。その機能をいくつかの細胞に役割分担させた結果が目という器官というわけだ。ならば両方が同じ細胞から分化しても何の不思議もない。

ゲノムと並んで脚光を浴びるES細胞はどうか。

造血幹細胞は蠢いて外敵を食べてしまう奴からただ単に血液を固める為だけの奴まで実に多様な細胞に分化する。
このことは大変な驚きだ。

けれど、考えてみると昔はひとつの細胞が蠢いて食べたり酸素運んだり様々な役割を請け負っていたのだろう。
進化や生態系の多様性は単純から複雑への一方向の動きに見える。複雑なほうが進んでいる。で、進化などと言われるようになった。

けれどそれはいつの間にかわれわれが自分の立場からしかものを見なくなっているからかもしれない。言わば哺乳類史観。

プラナリアだのゾーリムシの目から見るとあたしたちの細胞は遥かに単純なものに堕落している。ひとりでは何も出来ないのだ。

プラナリアやゾーリムシは生活環境が60℃を越えると全滅してしまう。つまりまんべんなく煮えてしまう。
けれど60℃をこえる環境が地球上にいくつあっても、多分生命は絶滅はしないだろう。

あたしたちの細胞は分化して不完全な存在になってしまったが、その分だけダメージを恢復する柔軟性を獲得している。
逆に言えば「あたしたち」という言葉が生態系を意味しないかぎりひとつひとつの種は不完全でどうしようもない存在だということでもある。

ある意味でわれわれの柔軟性はむしろ失われている。なにしろわれわれは首を切られると死んでしまう。プラナリアは2匹に殖える。
彼等にはクローン技術に伴う倫理問題など発生するはずもなかろう。

特殊であることはそのこと自体何の価値も意味もない。系の中に位置が存在するだけだ。そんなことがプラナリアの視点から見ると当たり前のことに思えてくる。

さて、突然昆虫。

昆虫はやたらと種類が多い。亜種や変種を入れたらとんでもない数になる。同じ種でも生活環境でどんどん形を変える。
イナゴを飼っていたら数が増えすぎ、気が付いたら翅の長い真っ黒な姿になっていた。バールバックの『大地』で有名な、全ての植物を食べ尽くす大軍を作る奴等だ。とても同じ種のイナゴとは思えなかった。
この変形は人口密度、ではなくイナゴ密度が高くなる事によって起こる。食べ尽くすと、エサがなくなりイナゴ密度も減り、もとの緑色に戻る。

熱帯雨林で、何億年も生き続け、人知れず絶滅してしまった昆虫は何万種とも言われている。知られていないものも当然沢山ある。種の数も多く、それぞれの個体数も多い。どう考えても地球は昆虫の惑星だ。

あるひとつの見慣れぬ昆虫を見つけ、その全ての種と違った昆虫であること。それを証明するには人生の日が暮れる。

新種を認定する方法はある。捕獲し、博物館や大学に持っていって見てもらう。
実は、研究機関の専門家は自分の専門以外の虫のことをあまり知らない。わたしたちがやっていたことをやるだけだ。図鑑を調べる。絞り込み方はもう少し上手いかもしれない。
高価な専門書も公費で買えるし、家に置かなくて済むし…←やっかみ

泉くんはその昆虫に「もう2度と会えないだろう」と悲観していた。諦めてはいけない、きっとまた会える。わたしはそういうメールを返した。
その直後、はっとした。昔なら会いに行こうと既にしていた筈だ。エネルギー落ちたなぁ。
けど、名前もわからないと、一体どこに行ったら会えるのさ…

草や虫の名前を調べることはかなり愚かしいこととされている。それで分かった気になるな!
スマップも女の子が抱えていれば名前何か知らなくて良いと唄っていた。それだけではないような気が、わたしにはする。

ゲノムが虱潰しに調べられている。これで生物は殆ど解明されるという。されるのか?
ライオンが子殺しをする。遺伝子絡みだという。遺伝子がそう言う指令を出している。

ならば、すべては遺伝子がそう言う指令を出している。そう言えば済む。これを理解と言うか?
いちいちゲノムを解析する必要もない。

マンモスや恐竜も復元できるかも知れない。
そーかなー?わたしにはそう思えない。生物は環境と密接に分かちがたく存在している。勿論その生物のからだその物も環境だ。

腸内細菌や共生していた寄生虫なしで生きてゆけるわけがない。クジラの腸の中にはびっしりと寄生虫が棲んでいる。これどーすんの?

彼等が食べていたもの、植生、気候、大陸の配置、太陽光度の変化、地球の自転速度。どうやって復元するのか?それぞれについて分かっている事はどの程度あるというのか?一例を挙げれば水生植物(水草)に関する本格的な図鑑は現在1冊も出ていない。

現実に、佐渡ではトキを自然界に戻そうとしているではないか。

環境から切り離された場で飼育されているトキを、どう考えたら生態系の復元と呼べるのか?わたしには全く理解不能だ。そうした生物を自然環境の中に放ったとき何が起こるか。誰も知らない。明らかにニッポニア・ニッポンは絶滅した。そのはずだ。それこそゲノムを解析すればそれは一目瞭然だ。

久し振りにプラナリアに会いにゆこうかな?
今だったら陽当たりのよい沢に行けば石の表面にゴチャマンとへばりついている筈だ。

彼らはMorganが自分たちから蝿に心変わりした日の事を覚えているだろうか?

(2003,12.18 初出 2007,01.11編集)

地震満々・選

当分、ここで他にやる事もないので、『…地震満々』からその時にしか分からないような文章を省いて、順不同に、ここに載せてゆこうと思う。

『…地震満々』『前の地震満々』はサックス奏者の泉さんとの共同作業だとわたしは考えている。初出は彼のホームページ『きたから通信』の中に載せられたものばかりだ。彼の助力なしにはこれらの文章は生まれなかったと思う。良き編集者を得て わたしは幸いだった。

けれど、Blogや掲示板が多数に及び、そこに書き散らすようになってから、ここに載せるような「作品としての」文章を書けなくなってきた。他の人の影響や、その時の職業などが色濃く反映されている。その事も気に掛かる。けれど、創造力を駆使した読み物になるような文章への熱意は失っていない。
最初はそのまま載せてゆこうと思っていたが、現在のわたしはかつてのわたしではない。
もともとの文章は既にある、やや手を加えながら文章を複数の場所に保存しておくのも悪くない。そう考えた。アーカイブってーのか?こーゆーの…。

つまり、彼のサイトからの独立を意味しない。

泉さんが許可して下さるなら、わたしとしては彼との共同作業はこれからも続けて行きたい。ここはここで書き続けるかも知れない。だが、それは『西風の頃』の文章であって『地震満々』の文章とは別物だ。その事は十分肝に銘じておかねばならない。

読む人が楽しめるような文章を。彼の意向はそのまま受け継ぎたい。それこそがわたしがこれからやってゆきたい事そのものなのだ。

samedi, septembre 09, 2006

忍び込む

後悔先に立たず。

余りにも考えが杜撰だった。と言うより、心が弱い。
これでも少しは強くなった気でいたのだからどうしようもない。

弱い部分や時期を狙い済ましたように 誘惑は忍び込んできた。

総ての掲示板とブログを閉じようか?そうも(また)おもったが

具体的なことは書かない
具体的な行動は取らない

そう決めた。それは勇気の振りであって勇気ではない。とりわけわたしの場合…。

取り返しは付かない。その事実の重さと痛みを抱え込む決心をする。

真っ直ぐに、何事かをすることが出来ないのか?

せめて痩せ我慢。結構大切な事だ。
続けろ!誰かがどこかでそう叫んでいる。

mardi, septembre 05, 2006

台風イオケそしてErnesto

ここから彼の様々な世界に遊びに行けるブログ『おのしんち』。どうやらErnestoはNYより遥かに西を通過したようで、ひと安心した。

進路予想図からはかなり近く感じたのだが、日本列島を重ねてイメージしてみると確かに離れている。エリー湖とオンタリオ湖の間を中心が通る形で予想図は打ち切られているが、考えてみるとNYに辿り着く前にアパラチア山脈なる地球のザラザラがある。エネルギーはそのザラザラに擦り切れてしまう。

それにしても彼の部屋から見える空に表情が溢れているのに驚く。
同じ都会でも、東京の空は1年中無表情だったように思う。圧迫感を感じるほどに…。台風が上陸したり、でかい夕立があると嬉しくなって、その中に身を投じて味わっていた。

善光寺平に身を潜めて、空に表情がある事が嬉しくて堪らなかった。けれど今度は台風が無く、今年にいたっては夕立らしい夕立も無かった。成層圏に届いている!と嬉しくなってしまう積乱雲すら見かけなかった。

物事は上手く行かないものだと思う。この様な事を書くと、沖縄や九州、四国など台風銀座の方々に怒られてしまうだろうが、かなりの嵐好きなのだ。ちょっとは申し訳ないと思っている。

少しずつ、エネルギーが溜まり始めている。

おのしんさんの『適量ワイルドレシピ』に刺激されて、手作りパスタを作ろうと奮闘したが完全に敗北。妙に腰の強いうどん、或いは、水団。そんなものが出来た。
パスタソースは市販のパスタの為に残しておきゴマだれで食べた。とりあえず身体に異常はきたしていない。

ここでパスタ用の粉を入手しようと駆けずり回ったのが間違いだった。後でWeb購入できる事に気が付いた。今度からはそうしよう。ここで入手できるものはここのものを目的にした方が良い。当たり前だが大切な事にも気が付いたのだった。

jeudi, juin 29, 2006

ここは後悔日記となるか?

白水社が出している「ことばのしくみ」シリーズ
『ドイツ語のしくみ』『フランス語のしくみ』を購入した。なかなか面白い。

「読んで」行ける。

もう少し英語力があればもっと役に立ったのかも知れない。
要するに文法書なのだが、ことばの構造を単純な例文から始めて読んでいる者が自分で気付いてゆく。
そうした意図を持っている。

その国の文化や歴史を題材にした本と併読してゆくと、ことばが段々理解出来てゆくような気がする。


兎に角原文にぶつかってしまえと乱暴に始めたこのブログだが
自分の語学力の余りのレベルの低さに参ってしまう。

ここは次第に内容を変え、あえて主題を設けずに暫く続ける事にした。

ここで試みてきた事は夏の行方という新たに設けたブログで、敷居を低くして続けてゆこうと思っている。
翻訳は、昨年発見した新大陸の様な世界だった。

文字列、音、その両面から、どうもわたしは日本語が余り好きではないらしい。
その好きではないものしか(それもあまり流暢ではないのだが…)使えないと言うのは情けない。

主に掲示板『夏の扉へ』を中心に動いてゆこうと言う方針は変わらない。なので、ここはそこがなくなるまでそれほど頻繁に更新されないブログのままだと思う。

再起動。と言う事だと思う。

何度かそれを繰り返してゆけば、その内何らかの方向は決まっていってしまうだろう。
それも残念だが仕方が無い。

mardi, avril 04, 2006

エリーザベト II

エリーザベト

あなたの額と、口と、手には
すてきな、やさしく明るい春があり、
まほうの魅力があるのを わたしは見出した
古いフローレンスの絵画にあるものを。

あなたはすでに遠い昔いちど生きた、
あなた、あまりにもすらりとした5月の精。
花の服を着たフローラとして
ボッティチェリはあなたを描いた。

そのうえあなたは、会釈のあの人
若いダンテはそいつでいちころ。
そうして無邪気なあなたの足は
天国への確かな道を知っている。

ひとひらの白い雲のように
空の高みに立つ
あなた。白く、美しく、遥かな
エリーザベト

雲は行き惑うけれども
あなたはさして気にも留めない。
けれども雲は漆黒の夜に
あなたの夢を通って行く

雲はぎんいろに輝いて行く
そうして止むことをわすれ
そうしてあなたは雲をおぼえ
あまく雲を懐かしむ

-
どうも上手く行かない。

mercredi, mars 29, 2006

97.EL CEMENTERIO VIEJO

この作品を識ってからどのくらい経つのだろう?

EL CEMENTERIO VIEJO

YO quería, Platero, que tú entraras aquí conmigo; por eso te he metido, entre los burros del ladrillero, sin que te vea el enterrador. Ya estamos en el silencio... Anda...

Mira; este es el patio de San josé. Ese rincón umbrío y verde, con la verja caída, es el cementerio de los curas... Este patinillo encalado que se funde, sobre el poniente, en el sol vibrante de las tres, es el patio de los niños... Anda... El Almirante... Doña Bonita... La zanja de los pobres, Platero...

¡Cómo entran y salen los gorriones de los cipreses! ¡Miralos qué alegres! Esa abubilla que ves ahí, en la salvia, tiene el nido en un nicho... Los niños del enterrador. Mira con qué gusto se comes su pan con manteca colorada... Platero, mira esas dos mariposas blancas...

El patio nuevo... Espera... ¿Oyes? Los cascabeles... Es el coche de las tres, que va por la carretera a la estación.. Esos pinos son los de Molino de viento... Doña Lutgarda... El capitán... Alfredito Ramos, que traje yo, en su cajita blanca, de niño, una tarde de primavera, con mi hermano, con Pepe Sáenz y con Antonio Rivero... ¡Calla...! El tren de Ríotinto que pasa por el puente... Sigue... La pobre Carmen, la tísica, tan bonita Platero... Mira esa rosa con sol... Aquí está la niña, aquel nardo que no pudo con sus ojos negros.. Y aquí, Platero, está mi padre...

Platero...

─ "Platero y yo" ─ Joan Ramón Jiménez

97. 墓地
わしはな、プラテーロや、おまえも一緒にここに入ってきてほしかったのだよ。だから墓堀人に見付からないように、煉瓦職人のロバたちの中に、おまえをこっそり入れておいたのさ。やっと静かになったぞ…。さ、…

ご覧、これは聖ヨゼフの区画だ。鉄の柵がこわれていて薄暗い、その緑の隅は歴代の司祭たちの墓だ。石灰を塗ったこの小さな一画は、西の空を背にして、午後3時のぎらつく陽射しに溶け込んでいるけど、これはこどもたちの墓なのさ…そして、これはエル・アルミランテ…ドニャ・ベニータ…この溝みたいに低くなっている列は貧しい人たちのだよ、プラテーロ。

雀たちが糸杉の木々に出たり入ったりしているぞ!なぁ、何とも楽しそうじゃぁないか!あそこのサルビアの花の間に、ヤツガシラが1羽見えるな。あの鳥は壁の墓の中に巣を作っている…墓堀人のこどもたちだ。ご覧、赤バターを付けたパンを随分美味しそうに食べているじゃぁないか。プラテーロ、白い蝶がふたつ…

新しい区画だ…お待ち…聞こえるか?鈴の音だ…3時の乗合馬車が街道を通って駅に行くんだ…あれは風車小屋の松の木だ…ルトガリタおばさん…エル・カピタン…アルフレディート・ラモス、子供の頃にな、ある春の日の午後、兄とペペ・サエンスとアントーニオ・リベロと一緒に、この友達のちっちゃな棺をここに運んだのだよ…しっ!…あれはリオティント行きの汽車が鉄橋を渡っている音だ…さぁ、ついといで…プラテーロ、これはね、あんなに可愛らしかった肺病の少女、あの哀しいカルメンのだよ…ご覧よ、陽の光りで輝いているその薔薇を…黒い瞳のままでは生きることが出来なかった、月下香のような女の子がここに眠っているのだよ……そうして、これがね、わしの父の…プラテーロ…

-

作者、J.R.ヒメーネスにとって、父は特別の存在だった。『プラテーロとわたし』を生み出したばかりではなく、彼の存在理由の根幹を形作ってもいた。
だが、日本語に置き換える作業を始めて、すぐに、ここから訳し始めたのは間違いだったか?と思い始めた。たくさんの注釈を付けたい衝動に駆られた。
思い出のようにしっかりと、多くの詩が共鳴し始めた。
エル・アルミランテ…海軍提督さん。エル・カピタン…船長さん。そう訳したいが、アルミランテは直前に立派さを教えてくれた馬の名前としても出てくる。
そして、白い蝶、薔薇…多くの思いがひとつひとつの言葉に重ねられてゆく…
思いはたくさんの世界を巡る。

この作品も折に触れ、少しずつ、紹介してゆきたい。
その事が、わたし自身の無知と浅さを紹介してゆくことになる。その事は、思い知らされた。大切な行為だと思う。

mardi, mars 14, 2006

Qué Será vs Que Sara

Que será será 聞き慣れすぎて正しいスペイン語だと思っていたが、辞書にはない。
Que sea lo que sea.ならばある。「どうにでもなれ」と訳されている。こりゃどういう訳だ?

「なるようになるさ」は
Lo que tiene que ser, será.
になるそうだ。
なるほどなぁと思ってしまった。

聞き慣れてしまったのはあの唄のせいだ。こうなったら全部載せてやる!

Whatever Will Be, Will Be (Que Será, Será)

When I was just a little girl
I asked my mother what will be
Will I be pretty, will I be rich
here's what she said to me

Que será, será
Whatever will be, will be
The future's not ours to see
Que será será
What will be, will be

When I grew up and fell in love
I asked my sweetheart
What lies ahead
Will we have rainbows day after day
Here's what my sweetheart said

Que será será
Whatever will be, will be
The future's not ours to see
Que será será
What will be, will be

Now I have children of my own
Htey asked their mother, what will be
Will I be handdsome, will I be rich
I tell them tenderly

Que será será
Whatever will be, will bee
The future's not ours to see
Que será será
What will be, will bee
Que será será

ついでにDoris Dayの歌詞カードにはQue será seráがQue sera seraとなっていることも分かった。
日本語英語というものが氾濫している事は知っていたが、英語スペイン語というものもあるらしい。
慣れ親しんだ余りこれを使うと日本語英語スペイン語となるのだろうか?

Que será seráがフランス語であると思い込んでいる人も多い。わたしもどちらか分からなかった。
辞書を引いてみて、それらしい用法が見当たらない。
これが決定的!という訳ではないのだろうが、そう思い込んだ個人的な理由がある。フランス語の「ケ・セラ・セラ」があるのだ。

Que sera, sera

Dans le berceau d'un vieux château
Une promesse vient d'arriver
Une princesse toute étonnée
A qui l'on aime chanter

Que sera, sera
Demain n'est jamais certain
Laissons l'avenir venir
Que sera, sera
What will be, will be

On vit grandir et puis rêver
La jeune fille qui demandait
Dis-moi ma mie si j'aimerai
Et sa maman disait

Quand à l'amant de ses amours
La demoiselle lui demanda
M'es-tu fidèle jusqu'à toujours
Et le garçon chantait

Quand elle chanta à son enfant
Dans un sourire, cet air charmant
C'est pour lui dire que dans la vie
Rien n'est jamais fini

Jacqueline François
Que sera, sera
Paroles: Eddie Marnay-R. Evans. Musique: J. Livingston 1956
Titre original: "Whatever will be, will be"
note: du film "L'homme qui en savait trop"

スペイン語に戻る。
Lo que será, será.は直説法未来形なので、Que sera seraと違い、「物事は必然性にしたがって起こる(例えば、机の脚を1本切れば机は傾く)」とか、「運命は我々には変えられない」とか、そうなると決まっている事は(たとえ我々には見えなくても)なるようになるのだということだそうだ。ほーっ!
辞書を読んでいたら疑問文としての¿Qué será?の用法の方がずっと多かった。
上の歌詞で言ったら答えとしてより、その前の疑問の方に使った方がよいのかも知れない。

…これだけだとつまらない。と調べていたら疑問文だけという訳でもなさそうだ。

Pueblo Mío
(Qué Será)

Pueblo mío, que estás en la colina
Tendido como un viejo que se muere.
La pena, que la abandono, son tu triste compañía
Pueblo mío te dejo sin alegría.

Qué será, qué será, qué será,
Qué seré de mi vida qué será,
Si sé mucho o no sé nada, ya mañana se ver?,
Y será, será lo que será.

Ya mis amigos se fueron casi todos;
Y los otros partirán después que yo.
Lo siento porque amaba su agradable compañía,
Mas es mi vida, tengo que marchar.

Qué será qué será?, qué será,
Qué será de mi vida quá será,
En la noche mi guitarra dulcemente sonará,
Y una niña de mi pueblo llorará.

Amor mío me llevo tus sonrisas,
Que fue la fuente de mi amor primero.
Amor te lo prometo, como y cuando no lo sé
Mas sé tan solo qué regresaré.

Qué será qué será, qué será,
Qué será de mi vida qué será,
En la noche mi guitarra dulcemente sonará,
Y una niña de mi pueblo soñará

始めの方の繰り返されるQué seráは

¿Qué será de mi vida, qué ser?
どうなるのだろう ぼくの人生

なので疑問文的だけれど

節の終わりに来る歌詞は

Si sé mucho o no sé nada
ya mañana se verá y será , será lo que será.
試されるのはこれからだ
なるようになる これが人生

になるのだから未来形でも大丈夫なのじゃなかろうか?(素人考え?)

ここまでで息絶えた。

そして復活した。
びくびくしながら訳してみよう。

 俺の町

丘の上にある俺の町は
死んだ年寄りみたいに広がっていて
おまえのボロい会社を辞めて悲嘆に暮れる
おまえがいないこの町にはなんにも楽しみもない

どうなっちまうんだ?どうなっちまうんだ?どうなっちまうんだ?
どうなっちまうんだ?俺の人生。どうなっちまうんだ?
おまえが明日見るのは十か零かわかちゃないさ。
人生ってのはこういったもんさ。どうにかはなるだろう

俺の友達はほとんどみんな離れちまった。
他の奴等は置いてくだろう。
ごめん。おまえの快適な会社を好きだったんだ。
けれどこれが俺の人生。行かなくちゃならない

どうなっちまうんだ?どうなっちまうんだ?どうなっちまうんだ?
どうなっちまうんだ?俺の人生。どうなっちまうんだ?
俺のギターが甘く鳴るだろう
町の娘たちが泣くだろう

恋人よ。おまえの笑顔を貰ってくぜ
俺の初恋はそいつが始まりさ
恋人よ。どうなるか、いつになるかわからないけれど
約束するぜ。必ず帰ってくるって

どうなっちまうんだ?どうなっちまうんだ?どうなっちまうんだ?
どうなっちまうんだ?俺の人生。どうなっちまうんだ?
俺のギターが甘く鳴るだろう
町の娘たちは夢を見ることだろうさ

-
このまま引用して恥かいても知らないよ。
書き終わってもう間違いを見付けた
後でそっと直しておこう。

samedi, mars 11, 2006

IM NEBEL

Seltsam, im Nebel zu wandern !
Einsam ist jeder Busch und Stain,
Kein Baum sieht den andern,
Jeder ist allein.

Voll von Freunden war mir die Welt,
Als noch mein Laben licht war;
Nun, da der Nebel fällt,
Ist keiner nehr sichtber.

Wahrlichi, keiner ist weise,
Der nicht das Dunkel kennt,
Das unentrinnbar und leise
Von allen ihn trennt.

Seltsam, im Nabel zu wandern !
Leben ist Einsamsein.
Kein Mench kennt den andern,
Jeder ist allein.


 霧の中

不思議だ!さまよいの霧の中
茂み、石、みなそれぞれが孤独で
いずれの樹もほかの樹は見えず
みなそれぞれに独り

世界はともだちに満ちていた
それは生きることがまだ明るかった頃のこと
いま、霧が降りる
もう誰ひとり見えない

まことに、誰ひとり闇を
知らないまま賢くはなれない
あの、避けようもなく気付きようもなく
すべてから隔ててしまう闇を

不思議だ!さまよいの霧の中
生きるということは孤独であるということだ
誰ひとりほかの人を知らない
みなそれぞれに、独り

lundi, mars 06, 2006

GESTUTZTE EICHE

(Gedichte des Malers)

Wie haben sie dich, Baum, verschnitten,
Wie stehst du fremd und sonderber !
Wie hast du hundertmal gelitten,
Bis nichts in dir als Trotz und Wille war !
Ich bin wie du, mit dem verschnitten,
Gequälten Leben brach ich nicht
Und tauch täglich aus durchlittnen
Rohenten neu die Stirn ins Licht.
Was in mir weich und zart gewesen,
Hat mir die Welt zu Tode gehöhnt,
Doch unzerstörber ist mein Wesen,
Ich bin zufrieden, bin versöhnt,
Geduldig neue Blätter treib' ich
Aus Ästen hundertmal zerspellt,
Und allem Weh zu Trotze bleib' ich
Verliebt in die verrückte Welt.

(H.Hesse)

短く切り詰められたカシの木
  (画家の詩)

樹よ、そなたはなんと切り詰められ
なんと異様に奇妙に立ちすくんでいるのか !
そなたはなんと度々苦しめられ
ついには反抗と意志だけが残ったのか !
わたしもそなたと同じく切り詰められ
悩まされ、しかしいのちと絶縁せず、
毎日、むごい仕打ちを散々なめさせられ
尚も光に向かってひたいをあげるのだ。
わたしの内にあった優しいもの柔らかいものを
世間はあざけり息の根をとめてしまった。
だが、わたしは強く変えられざる者
わたしは理解し、和解し、
根気強く新しい葉を枝から出す、
いくどとなく引き裂かれたとしても。
そうして、如何な悲しみをも持ち堪え
わたしは混沌の世を愛しみ続けるのだ。

(高橋健二・訳をもとに改作)



かなり格闘した。
その果てにやはり高橋健二氏の訳を載せることに決めた。
やや残念だが、改めて氏の訳詩にたどり着いたようなすがすがしさもある。
(その後、部分的に手を入れた。「剪定」してしまったかな?)

この詩をどうしても載せたくなったのは
遠い国の聖廟が破壊されたことに続く混乱が、異様な迫力で迫ってきたときだった。
気持ちが尖り、ささくれ立った。

その国イラクは地理的にも、精神的にも余りにも遠く、
そして、報道は何も伝えないに等しかった。とりわけ、この国では…

この詩によって、わたしはかなり救われてきた。
勇気すら与えられてきた。
しかし、やはり何も理解していなかったに等しい。

わたしはヘッセにゲーテに手の動かし方足の運び方を習いながら導かれる。
繰り返し、際限なく、そして常に新しく。
彼らの韻律に目を開かされている。

mardi, février 28, 2006

MIGNON 3

Nur wer die Sehnsucht kennt,
Weiß, was ich leide !
Allen und abgetrennt
Von aller Freude,
Seh' ich ans Firmament
Nach jener Seite.
Ach ! der mich liebt und kennt,
Ist in der Weite.
Es schwindelt mir, es brennt
Mein Eingeweide.
Nur wer die Sehensucht kennt,
Weiß,was ich leide !

『ヴィルヘルム・マイスターの修行時代(…の遍歴時代)』にある。
冒頭と末尾は余りにも有名。

憧れを知る者のみ
我が悩みを知る!
ただひとり
すべての歓びから引き離されて
我は
彼方の空を眺むる
ああ!我を愛し我を識る者
彼方にあり
そは我を眩惑させ
我が臓腑は燃ゆる
憧れを知る者のみ
我が悩みを知る!

日本語にすると、どうももどかしさが残る。わたしの訳が下手って事だけかも…?
Mignonは極めて魅力的な人物だ。この女性を小説の中に置く事が出来たという事だけでもゲーテの巨大さに圧倒される。
彼女と父の竪琴弾きは、この唄を調子っぱずれな二重唱で切々と歌う。
おんなことばにした方が良かったのかも知れない。

さてさて、基本的な間違いを見付けたので修正しようと思ったのだが、ちょっとこの詩と自分を発見した。
Es schwindelt mir, es brennt
Mein Eingeweide.
この感情は本屋に行きさえすれば、わたしもその文字面の通りに体験出来るらしい。
どうして良いのかさえ分からなくなる。
わたしにとっては「憧れを知る者」とは、本の事なのだろうか?…ちょっと寂しい。

ダニエル・アラスの『なにも見ていない』(宮下志朗訳・白水社2002)を買う。
この訳者の本は2冊知っている。両方とも面白かった。
『小鳥の肉体』(ジャン・フィリップ・アントワーヌ:白水社)はパオロ・ウッチチェッロの伝記を訳したものだが、この伝記は偽物だ。『ヴィーナスを開く─裸体、夢、残酷』(ジョルジュ・ユベルマン:白水社)もイタリア・ルネサンスに対して、興味深い切り口を提示していた。それで、つい購入してしまったのだ。
本屋に行った目的はゲーテだったのだが…(ハイネもあったかな?)

『なにも見ていない』「カタツムリのまなざし」は(中世聖書解釈学の著名な専門家)とボローニャで対談した。そうした想定になっている。実際に行われたのかどうか?それは分からない。それどころかこの対談相手が誰なのか、それも相当後になってからでないと分からない。「ウンベルトは…」。あ!ウンベルト・エーコだとその時気付く。確証は最後まで得られない。

この人は、変な本が好きなのだろう。そう思う。

vendredi, février 24, 2006

ELISABETH

II

Dir liegt auf Stirne, Mund und Hand
Der feine, zärtlich helle Lenz,
Der holde Zauber, den ich fand
Auf alten Bildern zu Florenz.

Du lebtest schon eimal vorzeit,
Du wunderschlanke Maigestalt,
Als Flora im beblümten Kleid
Hat Botticelli dich gemalt.

Auch bist du jene, deren Gruß
Den jungen Dante übermannt,
Und unbewußt ist deinem Fuß
Der Weg durchs Paradies bekannt.

Wie eine weiße Wolke
Am hohen Himmel steht,
So weiß und schön und ferne
Bist du, Elisabeth.

Die Wolke geht und wandert,
Kaum hast du ihrer acht,
Und doch durch deine Träume
Geht sie in dunkler Nacht.

Geht und erglänzt so silbern,
Daß fortan ohne Rast
Du nach der weißen Wolke
Ein süßes Heimweh hast.

H.Hesse(1900年)

ゲーテの『メルヒェン』(あすなろ書房)を読んでいた。
この本は絵本になっていて、ヴェルナー・ディードリッヒの絵が素晴らしい調和を見せている。

ゲーテは底知れない。
何を読んでもそう思う。「Märchen」は1795年、フランス革命軍から逃れた難民の為に書かれた『ドイツ避難民閑談集』の締め括り。物語の中の老人が語る物語として書かれたものだ。
その老人の言葉も謎に満ちている。
「今夜わたしはひとつのメルヒェンを語る事を約束します。あなた方がそれを聞いて何も思わず、しかもすべてを思うようなメルヒェンをね」
…まさにその通りだった。

この物語の発想は、どのようにしてゲーテに降りてきたものなのだろうか?
彼の想像力の広大さと深さは、果て知れない。

で、何故ゲーテに向かわないのか?
ふと、ヘッセにも「メルヒェン」という作品がある事を思い出した。
ゲーテの詩の中でも好きな「Mignon」は『ヴェルヒェルム・マイスターの修業時代』の中の魅力的なミニヨンを歌ったもの。
さて、ヘッセにも『ハンス・ディーヤラムの修業時代』という作品がある。
題名だけでものを申してはならないだろうが、昔から、ちょっと気になっている。

シェークスピアのように自分を全く語らない、そうした人たちではない。ゲーテもヘッセも。
むしろ、自伝とも言える作品群を多く残している。その他にも、かなり、重なる。

そんな事を考えていたところに、「ELISABETH」の原詩を届けて下さった方がいた。
ヘッセはわたしの理性を越えたところに存在している。いつの間にか夢中になっていた。

へたくそながら、原詩から少し翻訳を試みてみようと思い立った。
思い立っただけで実際にやるかどうかは、その日の気分による。
気分を、少しだけコントロールしようと思い、「ELISABETH 2」を書き込んでおいた。
前半は少し訳した。へとへとになった。
終わりまで辿り着いたら載せようと思っている。

jeudi, février 23, 2006

Verkehrte Welt - H. Heine

Das ist ja die verkehrte Welt,
Wir gehen auf den Köpfen!
Die Jäger werden dutzendwies
Erschossen von den Schnepen.

Die Kälber braten jetzt den Koch,
Auf Menschen reiten die Gäule;
Für Lehrfreiheit und Rechte des Lechts
Kämpft die katholicshe Eule.

Der Häring wird ein Sanskülott,
Die Wahrheit sagt uns Bettine,
Und ein gestiefelter Kater bringt
Den Sophokles auf die Bühne.

Ein Affe läßt ein Pantheon
Erbauen für deutsche Helden.
Der Maßmann hat sich Jüngst gekämmt,
Wie deutsche Blätter melden.

Germanische Bäuren glauben nicht mehr
Und werden Atheisten;
Jadoch die französischen Papagein,
Die werden gute Christen.

Im uchermärkschen Moniteur
Da hat man's am tollsten getrieben:
Ein Toter hat dem Lebenden dort
Die schnödeste Grabschrift geschrieben.

Laßt uns nicht schwimmen gegen den Storm,
Ihr Brüder! Es hilft uns wenig!
Laßt uns besteigen den Templower Berg
Und rufen : es lebe der König!

「愛をうたうハイネ」はむしろこのような作風でわたしに飛び込んできた。
熱い人だったんだなー。妙に納得してしまった。
ずらずらと人物名が並ぶので、この詩が書かれた1844年当時の時事問題に詳しくないと分からない。
無論、この辺りはわたしは良く分からない。
uchermärkschen Moniteurに関してはもはやお手上げ。
ウッカーマルク新聞と訳すしかない。プロイセンのいち地方だったのだけれど、ハイネにとってはプロイセンの代名詞だったらしい。訳を省略してもよさそうに思う。

その時代で消え去るべき詩だったのだと思う。どうしていくつかの詩集に収録されているのか?それが最大の疑問だとわたしは思う。


ところで、下の写真。大きなサイズのまま載せてもらった。住居板の傷み具合を示したかったのだ。
最初はもう少しはなれた所に取り付けられていた。
それが次第に近づいてゆき、次には高さを競って競りあがっていった経緯がある。
ブロック塀ぎりぎりの高さで止まった。
なんとなく、この住居板を見ていると、ハイネのこの辛辣な詩を思い出す。

mercredi, février 22, 2006

だんだん自分が情けなくなるとき

よもやこれ程まで…と思う量の写真が保存されていた。
…ひとつも人様にお見せ出来そうなものがない!これもひとつの驚きだ。

←こんなんばっか!

散歩していて、感動してしまった風景のひとつ。
現場でこれ程正確に区の境界が分かる場所は珍しい。

童話的に考えると、仲良く寄り添っているように見える。
そうではあるまい。
この風景が出現するまでのドラマを考えていると様々な感情に囚われる。

小学生低学年の時、同じような事をやっていたような気がする。
木製の机に鉛筆で深々と境界を描いていた。
今考えるとすごい根気だったと感心する。

別の意味でも自分に感心する。
もう少しメモ代わり以外の写真を撮る気に何故ならなかったのだろう?
例え、写真の趣味がなかったとは言え…

Zum Schen geborn

仕合わせな両目よ
お前が見てきたものは
それが何にせよ
実に美しかった!

─Johann Wolfgang von Goethe

見る事、から、始めよう。
ここから、再び…